普通に明日の歓迎会が緊張というか、何を話しておkで何がダメなのかたまにわからなくなっちゃうからすごくいきたくない。
食への興味よりも思考の快楽が強いのが自覚的に出てきて、食を丁寧にするのをたまにでいいやーにしたら脳みそがめっちゃカッとなった。なんかアイテム拾ったみたいな効果音出てきそうな感じに…。
全部が均等や正義不正義など現行の社会制度では可能なわけない。だから揺れながらも最善を尽くしていきたいって思ってるの。しかしスローガンは慎ましく暮らすです。まずは地に足つけた生活…と思ってるけど案外色んなことを心配しすぎて、それで脳みそしんどいのかも🧠。
冷笑にはなりたくない!!と思っているしいつでも怒っている私ていうのは前提としていると思っているけど、なんか最近は自分がズレている気もしている。大きな括りに関してどうしても冷めてしまう。大きな括りは取りこぼすものが多すぎて、本当にそれで良いのか不安になる。
大きな括りの中で人間の差別階級は温存さえるどころかより輝いてしまうの。そしてその大きな括りに関して違う感情を発露すると攻撃をされるのは怖いなと思う。
大きな括りの中で人間の差別階級は温存さえるどころかより輝いてしまうの。そしてその大きな括りに関して違う感情を発露すると攻撃をされるのは怖いなと思う。
みんな武力的な状況を戦争と指しているけど今はもっとえげつなくインフラ絶って、ライフライン削る非武力的な対応なんて当たり前で、このグレーゾーンなんて国際裁判でレッド出まくってる奴らが野放しになってる中、有耶無耶になること間違いなしなんよね。
いまでもガザへの想いはあるよ。苦しいよとも思うが、それと同時に世界って元々狂ってたのにもっと狂い始めていると思う。インフラを断つ方法ってマジで邪悪で、パレスチナ支配で使われている戦法。
それを思うと一部インフラを緩やかに断つこと経済制裁がどの時点で被害があるかでまた別の意味で戦争が始まっていると言えるのでは?現在の戦争ってどこからが戦争かのラインも危ういので、みんなが思う戦争という言語の前提も違うのではないかって思う。
それを思うと一部インフラを緩やかに断つこと経済制裁がどの時点で被害があるかでまた別の意味で戦争が始まっていると言えるのでは?現在の戦争ってどこからが戦争かのラインも危ういので、みんなが思う戦争という言語の前提も違うのではないかって思う。
現状の反戦デモやらないよりやった方が良いと私は思ってるし、ガザのデモを出たことあるけど、ああいう大きな波に対して行動してみたのは良い体験だったと同時に自分の感情を意思を整理しきれなくなっちゃうなって思った。だから何をいいたいかというと大きなデモ参加をするとその行動に正しかったという帰結が欲しくなってしまう。そうするとその関連の書籍などは偏りが生まれる。本当は範囲を広げて学ぶべき部分(歴史)よりも今の現状などへのフォーカスとなりし視野が狭まる。不安や怒りが高まる。と私個人は感じたので、私は参加はしないが、色んな知見は見続けたいと思った。